Music and Thought

Live記録がメインです。たまに長文になりそうな思考結果はこちらに。

Bowie没後5年に際して

日本時間2021/1/9、Bowieの没後5年トリビュートライブをオンラインで見てからこのエントリーを書いている。

2016年1/10、Bowieが亡くなった。そこからもう5年が経った。トリビュートライブはオンラインではあるものの素晴らしいもので、演出もちゃんと曲ごとにそのアーティストが責任を持ってしているし、各アーティストのBowieへの敬意・愛がそこにはあふれていた。

Duran DuranのFive Yearsで幕を開け、Billy CorganがSpace Oddityを歌い、俳優なので普段歌わないGary Oldmanが歌い、Trent ReznorがFantastic VoyageとFashionを歌う。少しだけ、Gail Ann DorseyがBowieの映像と一緒にUnder Pressureを歌うことを期待したが、Under Pressureは全く別人の女性ボーカリストが歌っていた。多分、Gail自身が歌いたいとは思わなかったんだろう。

私は既にFive Yearsで大泣きし、その後もちょいちょい歌いながら泣いた。5年経った今でもBowieがこの世にいないことは悲しい。悲しいというか、喪失感が大きい。

彼がこの世からいなくなってからの5年間、何か私的な大きな出来事や大きな社会的な問題が発生した時には「こういう時、Bowieはどう考え、どう行動するだろうか?」と考えることが間々あった。それこそ、2020年は本当にそう考えることが多かった。

このコロナ、アメリカ大統領選挙、社会の分断、人間の身勝手さをみるにつけ、「Bowieならどうしただろう?」「Bowieならどういうメッセージを発するだろう?」といつも考えていた。その答えはあくまで推測なので、私が好むBowie像から導出される以外にはないのだが、おそらくBowieファンはみな同じことを考えたに違いない。

去年、John Lennon & Yoko Onoの展覧会に行った。もちろん、「Johnだったらこの瞬間にどんなメッセージを発するだろうか?」と考えた。その行動を私も取れるかどうかはわからないけれど、そうやって自分の行動指針の一つにしてきたことは確かだ。

そこで、はたと気が付く。喪失感の源はこの「行動指針の喪失」に他ならないのだ。今までBowieは生きて作品を発表することで私たちに指針を示してきた。それがぱたっと途絶えることになるわけで、その喪失感は半端ない。今まで自分はロールモデルはいないって言ってきたけど、実はロールモデルはBowieだったのだw。恐れ多いけど。

 

彼の行動指針の示し方は「あそこへいけ!」ではない。Bowieというアーティストはそこが面白いところで、メッセージを明言しているものは少ないと思う。音楽で絵を描いて、それを見た聴衆は自分の考えを織り交ぜながら解釈していく。それは受け手に対する解釈の自由を最大限許す形で放たれる。私は自由を重んじるので、それが大変心地いいのだ。そんな自由な場所・解釈の庭を与えてくれたBowieがいなくなって、場所がいきなりぽかんとなくなってしまったというイメージなんだな、と、5年経ってコンサートを聴きながら思っていた。

ただ、今回のライブですごくよかったのは若いミュージシャンがBowieをきちんと自分の中で消化して、パフォーマンスをやっていたこと。Yungblud, Anna Calvi, Judith Hill, Adam Lambert等の若手ミュージシャンの成長は著しく、完全にBowieのパクリではない独自の解釈で歌い上げていたのが印象的。こうやってBowieの広げた解釈の庭がちゃんと広がっているのを見ていて、また泣けた。

Bowieは死んでも、きっとこうやって解釈の庭が後進の世代によって広げられていくのだなぁ、と思うと、5年経った今だからようやく少し前を向いて生きていけるのかもしれないなぁと思った。