Music and Thought

Live記録がメインです。たまに長文になりそうな思考結果はこちらに。

Adele@British Summer Time, Hyde Park, London

直前までチケットが取れなかったAdele。東京からロンドンへの飛行機の中でTwitterで売ってくれる人を探し出して、大丈夫そうな人かどうか確認して、GAチケット1.5倍の値段だったけど買えた!買えて、チケットTransferされてきたときはホッとした。

ライブがよかったのはいうまでもなく、最初の1曲目で号泣したよ。そして、みんなと一緒に大声で歌ったよ。

 

www.setlist.fm

The David Bowie Tribute Live@渋谷CLUB QUATTRO

あまり日本のTribute Liveは行かないんだけど、今回は結構豪華アーティストだったので行ってきた。土屋昌巳、PATA、SUGIZO坂本美雨、秋間経夫等。

私が一番見たかったのは土屋昌巳と秋間経夫だったのだが、もう2人は凄すぎた。Legendだよ、あの2人は。秋間さんのギターがもろグラムすぎて感動。今度秋間さんのライブも見に行かなきゃと思ったわ。SUGIZOとPATAももちろんかっこよくて、いいトリビュートライブだなと思ったけど、ボーカル陣がそれに比して少し弱めだったのが残念。まぁ、Bowieのボーカル歌いこなすって大変なんですよ。ちゃんとできる人、プロじゃないと無理だと思う。日本人だと誰がちゃんと歌えるんだろうな…。

 

セトリはTwitter公式アカウントのもの。

 

新三国志関羽編@歌舞伎座

今日は久々のエントリー。歌舞伎はコロナ禍になってもちょいちょい見にきていたのだけど、今回は特別に私が歌舞伎にハマるきっかけになった、スーパー歌舞伎「新三国志」のリメイク版を見てきたので、感想を書いておこうと思う。

 

三国志の初演は1999年。母親と初めて歌舞伎を見に行ったのが発端。でも、普通の歌舞伎だと多分意味がわからないんだろうというのと、スーパー歌舞伎ってなんだろう?って話をしていたので、見に行ってみたらすごかった。現代語だからセリフがわかるし、宙乗りはあるし、立ち回りもすごいし、大迫力。そして、ストーリーもすごくよくて、各シーンの造形美も素晴らしい。三代目猿之助ってすごい人だなーと思って、その後から澤瀉屋の舞台を年間で50回以上見てたっけ。

 

そんな私も社会人になって一歌舞伎ファンとして1年に2-3回歌舞伎を見る程度となったわけだが、そのきっかけを作ってくれたのはこの新三国志だったわけだ。三代目猿之助さんのあの包容力と度量のある台詞回し、笑也さん・笑三郎さん・春猿さんの美しさ、市川右近さんのパリッとした孔明。何を取っても完璧だったと思う。

 

さて、今回は以下のように配役が変わっている。※の部分は今回から追加になった役。

関羽:三代目猿之助→四代目猿之助

劉備(玉蘭):市川笑也

張飛市川猿弥市川中車

諸葛孔明市川右近(現:市川右團次)→市川青虎(弘太郎改め)

曹操市川段四郎浅野和之

孫権中村歌六中村福之助

香渓:市川笑三郎尾上右近

司馬懿(※):市川笑三郎

彩霞:市川春猿→市川笑野

関平市川亀治郎市川團子

陸遜市川門之助市川猿弥

呉国太(※):市川門之助

華佗市川寿猿

前から変わっていないのは劉備と寿猿さんの華佗だけなのねw。

 

まず、演目が始まって驚いたことが2つ。猿之助さんの声色が三代目とほぼ一緒なこと。遺伝って恐ろしいわーw。さすがに、抑揚はもう少し三代目の方が強いんだけど、声色が全く一緒。目を瞑ってたらわからん。もう1つは笑也さんの変わらなさ具合。22年前とほぼ一緒の格好しているんだけど、体格も一緒だし、シワもそんなに増えてないように見えるので、全然違和感がない!

 

ニューキャストに関しては、まずは孔明。弘太郎くんが青虎襲名して、師匠だった市川右團次さんの役をやっている。すごい、あの時はまだまだ若者だったのに!こんな大事な役を果たせるまでになったかぁともうお母さんの気分で見守っていたw。あと、笑三郎さんがやっていた香渓もすごく綺麗だったけど、尾上右近の香渓もすごく綺麗だった。一方の笑三郎さんは悪役の立役でやっぱりデカかったw。また、関平は今の猿之助さんが亀治郎だった時に派手に水の立ち回りをやった役。今回は流石に歌舞伎座だったので、水の立ち回りはなかったけど、團子ちゃん頑張ってたわー。

 

ストーリーとしては4時間あるスーパー歌舞伎を2時間弱に詰め込んでいるので、余韻を楽しむということはできなかったけれども、キーになる場面はちゃんと残していて、桃園の近い、梅の木の下で関羽と玉蘭が手を繋いで2人で座っているところ、関羽が敵地に向かう前の仲間との語らいの場はちゃんと再現していた。もう、梅の木の下で2人が手を繋いでいるところで号泣。そして、もちろん関羽が敵地に向かう前の語らいの場でも号泣。後半ほぼ泣いてたなーw。

 

不思議だなと思ったのが、昔自分が感銘を受けた作品を見聞きするとそれだけでその当時の感動が蘇ってきて同じ感動がフラッシュバックするというところ。これ、なんか名前つけられませんかね?w

 

三国志、またスーパー歌舞伎Versionで見たいなー。4時間でもいいから見たいなー。どうか松竹さん、ご検討お願いします!

佐野元春& The Coytoe Grand Rockestra@日本武道館

やっと日本でもライブが見られるようになってきたのがこの頃。とりあえず外国人はまだ入国厳しかったので、日本人で。新旧名曲織り交ぜてのライブ。

 

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Bowie没後5年に際して

日本時間2021/1/9、Bowieの没後5年トリビュートライブをオンラインで見てからこのエントリーを書いている。

2016年1/10、Bowieが亡くなった。そこからもう5年が経った。トリビュートライブはオンラインではあるものの素晴らしいもので、演出もちゃんと曲ごとにそのアーティストが責任を持ってしているし、各アーティストのBowieへの敬意・愛がそこにはあふれていた。

Duran DuranのFive Yearsで幕を開け、Billy CorganがSpace Oddityを歌い、俳優なので普段歌わないGary Oldmanが歌い、Trent ReznorがFantastic VoyageとFashionを歌う。少しだけ、Gail Ann DorseyがBowieの映像と一緒にUnder Pressureを歌うことを期待したが、Under Pressureは全く別人の女性ボーカリストが歌っていた。多分、Gail自身が歌いたいとは思わなかったんだろう。

私は既にFive Yearsで大泣きし、その後もちょいちょい歌いながら泣いた。5年経った今でもBowieがこの世にいないことは悲しい。悲しいというか、喪失感が大きい。

彼がこの世からいなくなってからの5年間、何か私的な大きな出来事や大きな社会的な問題が発生した時には「こういう時、Bowieはどう考え、どう行動するだろうか?」と考えることが間々あった。それこそ、2020年は本当にそう考えることが多かった。

このコロナ、アメリカ大統領選挙、社会の分断、人間の身勝手さをみるにつけ、「Bowieならどうしただろう?」「Bowieならどういうメッセージを発するだろう?」といつも考えていた。その答えはあくまで推測なので、私が好むBowie像から導出される以外にはないのだが、おそらくBowieファンはみな同じことを考えたに違いない。

去年、John Lennon & Yoko Onoの展覧会に行った。もちろん、「Johnだったらこの瞬間にどんなメッセージを発するだろうか?」と考えた。その行動を私も取れるかどうかはわからないけれど、そうやって自分の行動指針の一つにしてきたことは確かだ。

そこで、はたと気が付く。喪失感の源はこの「行動指針の喪失」に他ならないのだ。今までBowieは生きて作品を発表することで私たちに指針を示してきた。それがぱたっと途絶えることになるわけで、その喪失感は半端ない。今まで自分はロールモデルはいないって言ってきたけど、実はロールモデルはBowieだったのだw。恐れ多いけど。

 

彼の行動指針の示し方は「あそこへいけ!」ではない。Bowieというアーティストはそこが面白いところで、メッセージを明言しているものは少ないと思う。音楽で絵を描いて、それを見た聴衆は自分の考えを織り交ぜながら解釈していく。それは受け手に対する解釈の自由を最大限許す形で放たれる。私は自由を重んじるので、それが大変心地いいのだ。そんな自由な場所・解釈の庭を与えてくれたBowieがいなくなって、場所がいきなりぽかんとなくなってしまったというイメージなんだな、と、5年経ってコンサートを聴きながら思っていた。

ただ、今回のライブですごくよかったのは若いミュージシャンがBowieをきちんと自分の中で消化して、パフォーマンスをやっていたこと。Yungblud, Anna Calvi, Judith Hill, Adam Lambert等の若手ミュージシャンの成長は著しく、完全にBowieのパクリではない独自の解釈で歌い上げていたのが印象的。こうやってBowieの広げた解釈の庭がちゃんと広がっているのを見ていて、また泣けた。

Bowieは死んでも、きっとこうやって解釈の庭が後進の世代によって広げられていくのだなぁ、と思うと、5年経った今だからようやく少し前を向いて生きていけるのかもしれないなぁと思った。

2020年という悪夢

ライブに行ったら書くBlog、全然更新してない。1年前の投稿はこんなでしたよ、ってお知らせのメールが届いたから、「そういえばブログとか書いてたっけ」と思い出したように書いてみる。元々このブログは自分が行ったライブの検索性を高めるために始めた。チケットが残ってるだけだとデジタルに検索できない。いつ、誰のライブに行ったかわからなくなってしまうのだ。幸い紙のチケットは初めての洋楽ライブの時の者から残っていたので、チケットが残っているものは根性でブログエントリーに書き起こしてみた。よく覚えていないものもあるので、それは投稿の字数が少なかったように思う。

 

さて、去年はコロナでライブにほとんど行けなかった。行ったライブは2つ、自分のバンドのライブが1つで合計3つ。行ったライブもロック・ポップ系ではなくクラシックである。(あ、それもエントリーいれなきゃ)

ライブが無くなったら死んでしまう。そう思ってた私にとって案の定2020年は悪夢だった。ひたすら、ひたすら仕事をして逃避した。仕事は嫌なことを忘れさせてくれる。余計なことを考えなくて済むように、そして、中身は言えないけれど今のこの状況が少しでも良くなることに繋がる仕事だったから、とにかく仕事をしようと思った。

オンラインライブもまあアリだとは思うんだけど、やはり音は空気振動なのでライブハウスとか会場で生で聞くと肌に伝わってくるものがある。感動で身震いすることもある。それを感じる確率がオンラインだと格段に少ない。音量を大きくすればいいってものじゃない。その空間に入って、ある意味「トランス状態」になるのがライブのいいところなのに、それが1年間全くなかったのだ。

 

2020年1年を通じて少しわかったことがある。いつも「何か夢中になるものがあっていいね」と言われて暮らしてきたのだが、それがいまいちどういうことなのか良くわかっていなかった。2020年、熱狂するタイミングがない時間を過ごして、初めてわかったことがある。「熱中とか熱狂とかしない人の人生はこんなにも退屈なのか」と。そして、「人生ってこんなに空白の時間が多かったのか」ってこと。

 

そりゃぁ、結婚もしたくなるだろう。子供も産みたくなるだろう。だって、こんなに空白の時間があるんだもの。私には今までこんなに空白の時間はなかった。仕事と趣味と家庭の3つは絶対に両立できないと思っていたのは10代後半からなのだが、趣味の部分がこんなに抑えられると、家庭と仕事なら両立できるかもしれないと思い始めた。一体私はどういう人生を歩んできたんだろうかw。単に音楽をしこたま聞いて踊るだけで忙しかったのだ。なんという怠惰!なんという快楽!そりゃぁ、頭もこれだけ馬鹿になるもんだ!w

 

ただ、正直いうと、やはり2020年は自分にとってつまらん年になったというのは否めない。外に出て、いろんな街の匂いを嗅いで、歪んだ世界をみて、気持ち悪い形の何かを触り続けないと、自分の中の何かを作り出そうとする世界が閉じてしまう気がした。それこそ、家にいなければいけないのなら、首筋の後ろにLANケーブルをぶっさして、脳味噌に直接情報を送り込みたいくらい。

 

きっと、自由に外に出られるようになったら、いろんなものを吸収しすぎて破裂して死んでしまうかもしれないなw。でも、それで死ぬなら本望だ。